あなたは、自分が困っているときに「助けて」と言えますか?
かつて、メンタルヘルスに関する講演会に参加したときのことです。対人支援の現場で働く人びとを対象としたその講演会では、カウンセラーや保健師などたくさんの専門職の方が参加していました。
講演会の冒頭で、講師が参加者に次のように問いかけました。

あなたは、困っている人に「助けて」と言われたら、助けてあげられる人ですか?
私は、手を挙げました。周囲を見渡してみても、参加者の9割以上の方が手を挙げていました。対人支援の仕事をしている方が参加する講演会なので、これは当然の結果ですよね。
講師の方は、続けてこう言いました。

助けてくれる人がこんなにいると思うと、心強いです!
私が困ったときには、ぜひ皆さんを頼らせてくださいね(笑)。

では、もう一つ質問させてください。
あなたは、困ったときに周囲に「助けて」と言える人ですか?
私は、手を挙げられませんでした。そして、会場全体を見渡してみると、先ほどとは打って変わって、参加者の2~3割くらいしか手を挙げていませんでした。少し、気まずい沈黙が訪れました。
「誰かを助けてあげたい」という優しさを持ち合わせている人の多くが、周囲に気軽に助けを求められる訳ではない…それってなぜなんだろう? という疑問は、何年経っても私の心に深く残っています。
皆さんの場合は、どうでしょうか? 自分が困った状況に陥った時に「助けて」と言えますか?
今回ご紹介する一冊は、ズバリ『「助けて」が言えない』。薬物依存症の現場で長らく支援に当たってきた松本俊彦氏を編著者として、多分野・多領域にわたる19名が寄せた文章をまとめたものです。
こんな方にオススメ
- 教育・医療・福祉・心理などの現場で対人援助の仕事をしている方
- 困難にある方を支援したいと思っている方
- 社会問題に関心がある方
座談会から読むのがオススメ!
本書は、現場で働く専門家たちの経験と知恵の結晶といえる一冊です。それゆえ、一部の文章では専門用語が登場し、やや難解だなと感じる部分がありました。ですので、自分の関わる業界や関心のある分野をつまみ食いする形で読み進める、というのがオススメです。もちろん、私のように本の冒頭から読み始めるという読み方もOKです。
どの章も自分にはちょっと難しいなぁ…と感じる初学者の方には、巻末の座談会「『依存』のススメーー援助希求を超えて」から読むことをオススメします。編著者でもある薬物依存症治療の松本俊彦氏、エイズ予防の岩室紳也氏、当事者研究の熊谷晋一郎氏の3名にて2019年に行われた座談会が収録されています。
この座談会、とっても読みやすいだけでなく「なるほど~!!」という発見が多々ありました。たとえば、熊谷氏がこれまで発信してきた「自立は、依存先を増やすこと」というメッセージについて、松本氏は次のように語っています。
松本 「自立は、依存先を増やすこと」という言葉を聞いた時、私は雷に打たれたような衝撃を受けました。なぜなら、われわれは依存症の臨床の中で、「依存はいけないこと」と考えていたところがあったからです。患者さんは、われわれよりももっと強くそう感じていて、しかも自分で決めなさい、自分で汗をかき自分の足を使いなさいと言われ続けてきた。熊谷先生の言葉は、それを根底からひっくり返すものでした。
引用元:松本俊彦(編)『「助けて」が言えない SOSを出さない人に支援者は何ができるか』(日本評論社)
依存症とは「依存できない病」と言ってもよいところがあります。誰にも頼れないから、モノに依存するわけです。ですから、依存症という言葉は使うのをやめたほうがいいくらいで、アメリカ精神医学会の診断名が依存症から使用障害に変わったのはその意味でよかった。
依存症は「依存できない病」…。松本氏が寄せた第5章「『やりたい』『やってしまった』『やめられない』ーー薬物依存症の心理」を読んでいると、その輪郭が少しずつ見えてきます。この第5章は薬物依存にあまり知見がない方でも読みやすい内容ですので、座談会の次はこちらを読むというのもオススメです。
当事者は何に困っているのか?
他に、大石智氏が寄せた第10章「認知症のある人と援助希求ーーBPSDという用語の陥穽」も多くの方にとって読みやすい内容ではと思います。高齢化社会を迎えた日本において、認知症という言葉はすでに日常的なワードになりましたし、自分自身や家族が当事者だという方も少なくないことでしょう。
この章では、BPSD(Behavioral and Psychological Symptoms of Dementia:認知症の行動・心理症状、周辺症状)という専門用語が存在するがゆえに、当事者が困っている原因を支援者が見誤ってしまう事例が紹介されており、大変参考になりました。たとえば、以下のとおり。
認知症のある人のこころや行動に変化が生じた時、それをBPSDとして認識した支援者は、変化の理由が認知症のもたらす脳の変化であると解釈していることが多い。しかし認知症のある人のこころや行動の変化の理由は、脳の変化ばかりではない。
引用元:松本俊彦(編)『「助けて」が言えない SOSを出さない人に支援者は何ができるか』(日本評論社)
入所施設へ訪問診療に行き、介護への拒否や暴言への対処として薬物療法を求められたが、拒否や暴言の理由が補聴器を使用できない状況だったことがある。介護への拒否や暴言がいつからどのように生じたのかを介護士に尋ねたところ、もの忘れがあるから補聴器をなくされては困る、間違って誤飲でもされたら一大事と判断し、補聴器を家族に持ち帰らせた後から、拒否や暴言が生じていた。補聴器なしでは会話することが困難な人にとって、補聴器のない状況は、介護士や他の入所者が何を言っているのかわからず、希望や困りごとを伝えても相手がどのように理解しているのかまったくわからず、ただただ困惑することの連続だったに違いない。
支援者が勉強を重ねれば重ねるほど症状への理解が進む一方で、本質的な原因を探ることに怠慢になってしまう、という言い方もできると思います。目の前で大声を出したり怒りを露わにしている人が何に困っているのかという観点は、医療の世界に限らず日々を振り返るヒントになりそうです。
相性の悪い上司、パフォーマンスの低い部下、言うことを聞かない子ども…。対人援助の難しさと醍醐味を感じさせられます。
「助けて」というのは恥ずかしいし不安
本書を通して感じたのは、困難のなかにある方は「恥」の感情を抱いているということです。たとえば、嶺輝子氏が寄せた第3章「『楽になってはならない』という呪いーートラウマと心理的逆転」では、次のように書かれています。
ジョン・ブラッドショウは著書のなかで、「恥はすべての依存症の核であり、その感情を煽り立てるものだ」と言っている。そしてその毒性のある恥辱感は、クライエントを長く、あるいは永久にそのどうしようもない惨めな人生に留めおく核と原動力になる。その毒性のある恥辱感は見えにくく、クライエントを深い部分から操るが、その認知あるいは認識自体が根本的に間違っているのだ。
引用元:松本俊彦(編)『「助けて」が言えない SOSを出さない人に支援者は何ができるか』(日本評論社)
さて、ここで当記事の冒頭での質問に戻りましょう。
あなたは、自分が困っているときに「助けて」と言えますか?
私は、講演会でこの質問をされたときに「はい、助けてほしいと言えます」と手を挙げることができませんでした。その理由を考えてみたところ、「こんなことで助けを求めたら叱られるかな」「嫌われちゃうかな」「弱い人間だとバカにされるかな」といった言葉が浮かびました。そこには、恥ずかしさ、不安がありました。
なぜ、誰かを助けることには躊躇しないのに、誰かに助けてもらうことには抵抗を感じるのでしょうか? それは、誰かを助けたいという思いを持っている方が、心のどこかで相手に対して上から目線で見てしまったり、「自分はこの人とは違う」というささやかな優越感を抱いていることの裏返しなのではないでしょうか?
本書に収録されている座談会にある「自立は、依存先を増やすこと」という言葉。支援者も当事者も依存先をどんどん増やしていったらいいし、助け合うことが自然になされる世の中になったらよりよい社会になるんだろうな、と思います。
関連書籍
- 松本俊彦『薬物依存症』(筑摩書房):薬物依存症治療の専門家、松本俊彦氏が依存症治療の現状やその誤解について著した一冊です。
- 鈴木伸元『性犯罪者の頭の中』(幻冬舎):今回ご紹介の『「助けて」が言えない』の記事の中では省略しましたが、新井陽子氏が寄せた性犯罪被害についての実態も大変こころに残る内容でした。ここでは、性犯罪加害者の心理に焦点を当てて書かれた一冊を挙げておきます。
最後までお読みいただき有り難うございました!
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