「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」
時代の流れに合わせて、人々の生活様式や考え方は移り変わってゆくものです。しかし一方で、変わらぬ事実もあるのでしょう。日本の歴史について、色々と考えさせられる小説に出会いました。今回は、『桃尻娘』(講談社)などの作品でよく知られる橋本治氏が、作家デビュー40周年記念として著した長編小説をご紹介します。
今回ご紹介する『草薙の剣』は、62歳から12歳まで、10歳ずつ年の違う6人の男たちを主人公に、その父母や祖父母まで遡るそれぞれの人生を描いた力作。敗戦、高度経済成長、オイルショック、昭和の終焉、バブル崩壊、二つの大震災を生きた日本人の軌跡を辿ります。
本作は第71回野間文芸賞を受賞するなど輝かしい評価を得ました。しかし、残念ながら作者の橋本氏は本書出版から約1年後に逝去しております。人間を見つめ続けた橋本氏が晩年に到達した日本人の人生観とは何か。そうしたことも思い巡らせつつ、読み進めていきましょう。
こんな方にオススメ
- 橋本治の小説が読みたい方
- 昭和の日本における人々の生活が知りたい方
- 人間を見つめ直す小説を探している方
家族間のコミュニケーション
日本人は少し口下手だといわれることが多いです。以下の、1963年頃における嫁姑間のわだかまりについての記述は、まさにそんな口下手な人々同士の会話です。
嫁は、姑の助言に従って後日同じ料理を作り直す。食卓に上せて「どうですか?」と尋ねるが、姑は「そうね」と言ったきり答えない。姑に悪気はない。うっかりしたことを言って嫁の料理をけなすことを恐れていて、嫁はそれ以上なにも言ってくれない姑の前で身を強張らせる。小さなわだかまりが少しずつ溜まって行った。
引用元:橋本治『草薙の剣』(新潮社)
現代でも、お互いを慮るこころが相手に伝わらず、却って穏やかではない間柄を築く一因になってしまうことが多々あります。「男は黙って」「女は控え目に」「不言実行」といった、思いを口にしないことを美徳として捉えてきた文化が存在することは無視できないでしょう。
一方で、言葉にしなくても相手の考えを先回りして配慮する能力が比較的高いお国柄であることも見過ごせない事実です。コミュニケーションのバランスのとり方は、難しいものですね。
昭和の終わりの感じ方とは
2019年、平成が終わり新しい時代が始まりました。かつて昭和から平成への移り変わり(1989年)の時には、人々はどのような印象を受けたのでしょうか。世代により感じ方が大きく異なっていたようです。
以下は、昭和の終わりを迎えたときの描写です。
「終わってしまった時代」を象徴するような人達の訃報に接して、過去の時代を知る人は、「あ――」という一声を漏らす。しかし、その年十六歳になる常生には、そのような「過去」がまだなかった。三年前、中学入試に合格した時、一家は新しいマンションに移った。そのことの方が常生にとっては、「昭和が終わった」ということ以上の大変化だった。
引用元:橋本治『草薙の剣』(新潮社)
昭和が終わった当時は、昭和を代表する漫画家である手塚治虫氏、歌手の美空ひばり氏が相次いでその生涯を終えました。このとき10代後半だった主人公の一人、常生にとっては、昭和の終わりよりも自分自身の住環境の変化の方が大きな関心事だったようです。
2019年4月に行われた平成から令和への移行についても、当時を生きる若者にとってはあまり意識に上りにくい事柄だったのかもしれません。かつ、本書出版時の2018年時点では、2020年に開催される予定の東京五輪(皆さんご承知のとおり、新型コロナウィルス感染症の影響を受け2021年に延期されました)も大きなイベントでしたし、実際こちらの方が大きく報道されていたような記憶があります。
女性の社会進出と性役割の葛藤
最近は、かつての時代と異なり女性の社会進出が盛んになりました。「そのうち『専業主婦』ということばも死後になるのかなぁ…」と時代の流れを感じている人も少なくないですよね。
以下は、2007年頃のある夫婦間での出来事についての描写です。現在も引き続き、男性と女性の家庭での役割はあいまいな状態となっているように思います。いかがでしょうか。
それからしばらくして、凡生の父は会社に配置換えの異動を申し出た。
引用元:橋本治『草薙の剣』(新潮社)
妻に対して「まだ子供が小さいんだから、少しは仕事をセーブしろよ」と言いたい気が彼にはあるが、それは言えない。言えば、「育児を私一人に押し付けるの!」と罵声を浴びせられる。もちろん、凡生の父親にそんなつもりはない。だから保育園へ迎えに行く役目を引き受けた。「送り迎えの両方をやろうか?」とも言ったが、「自分は育児をしている」と主張したい妻はそれに従わない。
現代では共働き夫婦が増え、「仕事は男性が担うものである」という観念は薄れつつあります。「男性育休」をはじめとした、子育てに関する議論が盛んになってきたという時代背景もあります。
それでも、「家事・育児は女性がしなければならない」という観念は男女ともに生き続けているような気がするのは私だけでしょうか。特に女性にとっては、強迫観念じみたものとして存在しているように思うのです。育休の取得期間や家事に費やす時間は、日本では男性よりも女性の方が長いといわれています。
時代の変化に合わせて互いの役割を柔軟にしていきたい思いはありながらも、そうできない実態がある。これは社会的な課題だと思います。
関連書籍
- 橋本治『桃尻娘』(講談社):橋本治氏のデビュー作です。私は大学生の時に、こちらの橋本治氏の小説を初めて読みました。「人間を深く理解したうえで書かれた作品だなぁ…」と当時感じたことを、今でも覚えています。
- エリン・メイヤー『異文化理解力 相手と自分の真意がわかるビジネスパーソン必須の教養』(英治出版):国によって異なるコミュニケーション文化を論じる一冊。自動翻訳技術で、言語の壁は近い将来なくなってしまうのかもしれません。ただ、グローバル化が進むにつれて文化の壁はどんどん顕在化するでしょう。日本には、世界標準から大きく解離している価値観が多々あります。豊富な事例から、それが自覚できる良書。
最後まで読んでいただき有難うございました!
♪にほんブログ村のランキングに参加中♪